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人それぞれの送り方

先だっての「先生」との会話もあり、人の最期のすごしかたやら送り方やらについて縷々思うことがある。モノも心もどんな準備をしたところで恐らくその時が来たならただ呆然としてしまうような気がしている。

ワイルドの名言

Children begin by loving their parents. After a time they judge them. Rarely, if ever, do they forgive them.*1

 - Oscar Wilde

まあ、オスカー・ワイルドは大概に屈折した人物であったように思われる。子が大人になり親が老いていくとき家族の作法にはさまざまあって正解はない。年の瀬のこの時期に相応しい話題とも思われぬが「看取りのとき」に関連して印象深い人たちの話を書き留めておく。

天晴れ

綾戸智恵さんが『徹子の部屋』で語った看取りの話は迫力があった。ひとつの理想の「仕舞い方」といえる。

いよいよ「その時か」と見極めた綾戸さんは母君を施設から連れ戻した。久しぶりに伸びやかに自宅で過ごした数日後、もうええか、と母君は言って食べることをやめた。そうして穏やかに呼吸がゆっくりになって「も一回息しよか、」という綾戸さんの声かけに一度応えた後、二度目にはすぅーと答えなく綾戸さんの腕の中で静かにあちら側へいらしたそうだ。いい顔で。

綾戸智恵、介護を学ぶ

抗わない

ヤマザキマリさんは聡明な方だ。しかも日本人が頭で理解できない「愛」の根本が身に付いた方なのだと思わされた。

目の前に居る女性が我が娘だか誰なんだか分からなくなって夢の世界を生きている母親に「わたしよ!あなたの娘です!」などと出張って無理矢理に思い出させなくとも、ふんわり忘れながら老いていってもいい。

テレビの番組でほんの数秒、あの早口で語られたことだが、だいたいそういうようなことを仰った。ふんわり老いていくことを壊さずにおくということだ。生易しいことではない。この優しさが如何にして育まれたのか。強くなければ優しくはなれないは真理。

真っ向勝負

佐野洋子さんは「母を捨てたと思っている」などと自嘲めいた文脈でエッセイなどに書いたりなさっていた。一筋縄ではいかない葛藤のあれこれを乗り越え、山のような資料をとりよせ、ものすごい馬力で下見を敢行して母君が安住できる施設に入居手配したことを「捨てた」とは言えないし言うものではない。

三者三様である。私としてはヤマザキさん風に「ふうわり」に着地したいと今は思っている。

ここでワイルドの言葉をもうひとつ。

All women become like their mothers. That is their tragedy.  No man does, and that is his. *2

- Oscar Wilde

ワイルドにおちょくられて終わるのもどうかと思うが、そういうものらしいですよ。

息子たちの看取り話はどういう風なんだろうか。興味深い。

*1:拙訳:親のことを大好きだった子供。時が経ち親を裁くようになる。親を許すということはまずない。

*2:拙訳:女は須く彼女等の母に似てくる。女の悲劇である。男はちがう。それが男の悲劇。