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戦争の朝

新年を言祝ぐ暇もあらばこそ、中東ではイランがミサイル乱射、開戦なのか。米国は世界の警察どころか、とんだやぶ蛇シューターじゃないか。株が、為替が、原油価格が、ああ、ああ。

玄関のお正月飾りを外した。松も明けて世の中の企業戦士方は通常勤務に戻っていることだろう。未だ20世紀みたいに会議、会議の毎日なのかしら。

会議は生産的じゃないから時間の無駄、という指摘は多く、20世紀のニッポン的な会議については当たっている。けれど、そういう会議に出席した人々は、ある事項が決定する現場に立ち会ったとも言える。意志決定のプロトコルとしての会議に出席したという物理的事実が、たとえそれが自分の意志じゃないとしても「なんか、みんなで決めた」納得感が生まれる、もしくは植え付けることができる。

不謹慎だが会議は葬式と少し似ている。

葬式は不要だという人達がいる。無駄に人が集まって、線香の煙をもくもくさせて、読経をただ聞いて、出棺をお見送り、早く帰りたいのに通夜振る舞いとかで呑んだり呑まれたり。全部はぶいて焼却所から墓地へ、なんなら墓地も省いてしまえの勢い。

言わせて貰えば、プロセスをみんなで体験することに意味があるのだ。

人の死を受け入れるのは難しい。型通りに儀式を行うことで、そしてそれを列席者たちと共に体験する時間を過ごすことで、遺族は先へ進むきっかけと勢いを手に入れる。

会議も葬式も省略するのが合理的か。合理的なのがいいことか。

心が付いていかない、と私は思う。儀式に費やす時間は人間が生理的に必要としている時間だ。葬式はメールで済ませられない。会議と葬式を並列するのは乱暴すぎるが、ある種の会議に費やす時間も人間の生理が要求する。企業が人間の集団である限り、どこかで人と人は会話をしなければならない。これをメールやチャットで代替出来るか。

21世紀のテクノロジーが、人間を押さえ込みませんように。テクノロジーが生きた人間に沿って働いてくれますように。

20世紀にアメリカが中東を爆撃するのをCNNが中継していた。職場のモニターを見つめながら、誰かがテレビゲームっぽいよね、とつぶやいた。私もそう思って震えていた。